何年か前の小欄で、作家の井上ひさしさんが少年時代に辞書を万引きして本屋のおばあさんにつかまった話を紹介したことがある。その時書けなかったおばあさんの井上少年への説教がある
盗んだ辞書を手に取りながらおばあさんは言う。「これを売ると百円のもうけ。坊やに持って行かれてしまうと、もうけはフイになって定価の五百円の損が出る。その五百円をかせぐには同じ定価の本を五冊売らなければならない」。井上少年はこわごわうなずいた
「うちは六人家族だから、こういう本をひと月に百冊も二百冊も売らなければならない。でも坊やのような人が三十人もいてごらん。六人は餓死しなければならない。坊やのやったことは人殺しに近いんだよ」。少年は薪割(まきわ)りを命じられた(「ふふふ」講談社文庫)
そして今日、書店が次々に街から消える背景には目に余る万引きの横行がある。そんななか東京の古物商「まんだらけ」がアンティーク玩具を万引きしたとされる人物の画像をネット公開すると警告した騒動である。喝采(かっさい)する向きが多かったのも不思議ではあるまい
結局のところ警察の要請を受けて公開が中止されたのは、私的制裁が許されない法治国家の原則からみて妥当だろう。罪の意識の薄い万引き犯には「緩慢な殺人」というおばあさんの見方をそのまま投げかけたい。では井上少年の薪割りは私的な罰ではなかったのか
薪割りが片付くと、おばあさんは少年に辞書を渡した。「代は薪割りの手間賃から差っ引いておくよ」。少年は欲しい物は働いて買うのだと教えてくれた人生の恩人を大作家となった後も忘れなかった。
(毎日新聞 2014年08月14日 より抜粋)